2018/11/05

セルフ・ライナーノート:2020 (all about paradise)

2020 / all about paradise

さあ 響き渡れ 声とファンファーレ
東京 謳え躍れ はじまりの祭典を

神様 仏様 ちょっと待って 今は
勝負の行方だけを見届けたい

なんだっていいやって思えちゃうね
今宵は無礼講!
後悔も 心配も 置き去り
つかの間の 離脱(ブレイク・オフ)

人類が限界を超えたとき
歴史は変わる
精神と身体の闘いに
魅せられていよう

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紀元前の古代ギリシアで誕生した競技祭は、
世界中を巻き込む地球上で最大の祭典となった。
開催が決まるとあらゆるメディアが放映権を奪いあい
あらゆる企業がスポンサーになるために多額の資金を投入する。
開催国では税金を使ってたくさんの施設が新たに建設され、
さまざまなルールを整備し、膨大な数の人員が配置される。

もちろんスポーツをするには場所がいるし器具がいるし
放送してくれるテレビ局のおかげで多くの人が楽しむことができる。
だけど、なんのためにこの盛大な祭りが開催されるのか、
そして一体スポーツとは誰のためにあるものなのか
ときどき、わからなくなる。

一方で、2018冬季開催の時、アメリカ人選手の演技に
北朝鮮の応援団員が思わず拍手を送ってしまった"規律違反"のニュースを
わたしはどうしても忘れることができない。

スポーツをする方にはまったく縁のない人生を送っているけれど、
テレビの中の選手たちの信じられないほどの精神力や
極限まで身体能力を高めた者同士が0.1秒の世界で競い合う姿、
競技の合間に見える人間らしい笑顔や涙に
わたしは何度も心を動かされてきたし、時に泣かされてしまう。
スポーツの最もすてきなところのひとつは、
人間として、人間に共感したり感動したりできるところだと思う。
たとえ、それが敵対する国の選手だったとしても。

世界情勢やビジネスと切り離して考えることなんて
もう絶対にできなくなってしまった”あの”スポーツの祭典は、
スポーツ以外のルールでがんじがらめだ。
祭りの名前すら、簡単に使ってはいけないのだから。
この曲や映像だってもしかしたらいつか消されてしまうかもしれない。

スポーツはいくつもの問題に取り巻かれている。
だけどその一瞬だけは、誰にも邪魔できない。
誰もが息をのんで勝負を見守るしかない。
わたしもその瞬間は頭をからっぽに、
人間の精神と身体の究極の闘いに、ただ身をゆだねていたい。

2018/09/10

正しさのスキマ

最近、テレビやインターネットを見ているだけでめちゃくちゃ疲れてしまう。
政治経済のおかしいところにビシッとツッコミを入れる人
マイノリティの権利を守るために叫ぶ人
続く自然災害の被害の記憶を忘れないこと、
そしてこれから起こりうる災害への備えを呼びかける人
いま、世界が「正しさ」の言説にあふれていると思う。
みんなが正しいことを発信して良い社会をつくろうとしていて、
わたしは自分がそれを見るのに疲弊していることに気づく。

わたし自身、幼いころから正しさの魅力に憑りつかれている方だと思う。
成績が悪いと何となくいやな気分になったし、
過去に自分が犯した過ちもなかなか許せない方だった。
ましてや他人の間違いについては、きっといまより全然許せなかった。

正しさは、正しいということそれ自体を武器にして
あらゆるものを傷つけてしまう強い攻撃性を持っている。
インターネットでは、誰にも面と向かわずに、かつ熟考された言葉で正しさを投げつけることができるので、
きっとその力がフルパワーで(ときにはそれ以上の威力を持って)伝わってくるのだと思う。
わたしのここ最近の疲れは、正しさのもつ暴力性というか攻撃性に対する疲弊、
そして、自分が律儀にその正しさにしたがって生きることに対する疲弊なのかもしれないなあと感じている。

わたしはお笑い芸人がやっているくだらない深夜ラジオをよく聴くのだけど、
純粋な話の面白さに加えて、ラジオ特有の急がない間や中身のない会話が
「正しさのスキマ」を提供してくれるものとして、愛している。
芸人たちのトークは世の中的に明らかにNGな内容でもきちんと笑いにしてくれるし、
ハガキ職人も、番組のなかで完結する笑いの世界をしっかりと守ってくれる。
(「笑いのルール」みたいな視点が入ってくるとまた窮屈になってくるので、
わたしはあくまでリスナーとして何も考えずヘラヘラ聴く)
お笑い以外でも、例えば漫画家のさくらももこさんや音楽家の坂本慎太郎さんの作品、
あとはマツコ・デラックスさんにも同じような「正しさのスキマ」を感じることがある。
正しさのスキマとは決して「正しくない」ということではなくて、あくまでスキマなのである。
知らないうちに抑圧されている何かをつかのま解放できる感覚だったり、
正しいことを考えずにいられる空白の時間だったり、そういった感じのものだ。

最近はそんな風にして正しさへの疲れみたいなものを癒しているので、
もしもわたしと同じようなことで疲れているのかもという人がいたら、
ちょっと正しさのスキマに入ってみるのもいいかもしれない。

2018/07/09

表現者として生きる人

所属しているバンドall about paradiseが
今週末に開催される「ap bank fes '18」に出演することになった。
私は、自分が人前で歌うことを始めたきっかけである
Salyuというボーカリストと同じ舞台に立つことになる。

彼女の一番好きなところは「表現者」であるところ。
上手く歌うひとはこの世にたくさんいるのだけれど、
Salyuさんは曲によって別人のように化けることができる。
リリィ・シュシュ、Salyu×Salyu、そしてSalyu、
それぞれの活動のなかで、まったく異なるアプローチで異なるものを伝える。
私はそこに一番のあこがれをもって、彼女の背中を追い続けてきた。
※5年位前に書いた文章が出てきたので載せておきます
「私はあくまでもボーカリストであって、表現にこだわることが仕事」
と語っていたことをよく覚えている。
自分の表現したいことを曲にして発信するということ、
つまり、アーティストやシンガーソングライター的な活動のほうが
創造性の点で音楽的に高く評価されがちだが、彼女を見ていると
歌うこと、表現することへの徹底したこだわりを感じさせるボーカリストも
同じように評価されるべきだと感じる。
「大事なのはどんな感情を込めるかではなく、どんな感情に見えるかということ」
という彼女の言葉からは、独りよがりではない、
聴き手への強い意識をもつ姿勢が見て取れる。
歌うこと、そして人に歌を聴いてもらうことを愛する1人として、
私は、Salyuの歌に対する姿勢に感銘を受けずにはいられない。
Salyuの表現力はいつでも、私の目標の1つとなっている。
こうして歌をうたう道に踏み出したのだけれど、
私は誰が見ても特別に才能がある、というタイプの人間ではない。
世の中には、歌が歌えて曲も作れて楽器までうまいなんて人がたくさんいる。
だから当然のように、何度も挫折をくり返してきた。
さらには、音楽がかっこいい・ダサい、売れる・売れないとか、
芸術だビジネスだとか、そんな話ばかりの世界で、
自分が何のために続けているのかわからなくなってくる。
ただ歌でいろんな音楽とその精神性を表現したいという心を
日々、何度も何度も、忘れそうになる。

いま私が歌っているall about paradiseというバンドの音楽は
テクノやエレクトロニクスの要素を多く含んだ、比較的歴史の浅い音楽。
私が自分自身で生み出すことは絶対にできなかったもので、
これまでの自分の辞書にはない言葉がたくさん出てくるような感じ。
自分になじみのないものを表現する挑戦が、単純に楽しい。

今回大きな舞台に立つことになり、改めてここまでの音楽人生を振り返ると、
きっと私は大きく蛇行をくり返しながらも、
自分のやりたいことに向かって進んでいるんだろうと思う。
数年前に、一度だけSalyuさんと言葉を交わしたことがある。
「いつかSalyuさんとかならず同じ舞台に立ちます」
「うん、がんばってね、私もがんばるから」
それが6日後にやってくるなんてまだ半分信じられないけれど、
もしも舞台裏で会えたら、いまも諦めずに背中を追いかけていると伝えたい。
表現者として生きる彼女は、これからもずっと私の目標とする1人だ。

2018/04/23

物語への反抗

わたしたちはいつも理由とか意味とかを探している。
犯人が殺人にいたった動機は?
あの子なんでアイツと付き合ってんの?
この絵画はなにを表現しているか?
なんてことを、いつもわかろうとしている。

わたしたちは遭遇した物事のほとんどすべてについて、無意識にわかろうとする。
たとえ遭遇したものをなるべくありのままに受け止めようとしてみても
自分のなかからいろんな知識が、経験が、意味が理由が、どんどん語りかけてくる。
わたしたちのなかには幾パターンもの物語が蓄積されていて
かならず、どれかに当てはめて理解させられる。

わたしが生きるとき、ある物語をなぞって生きているわけではないのに
生きることを見つめるとき、どうしてか物語になっている。
わたしはひとつひとつの瞬間を、ただ生きてきただけのはずなのに
脳みそが勝手に知っている文脈・意味・理由なんかをもってくる。
人生は、たちまち物語になっていく。

物語は自衛であり、脅威である。
わたしたちはいつも物語に守られていて、ときに苦しみから解放してくれる。
トラウマさえも乗り越えさせてしまう力がある。
わたしたちはいつも物語に囚われていて、ときに目の前のわけのわからぬ現実を
たったひとつの悲しい解釈に閉じ込めてしまうこともある。

だから、ときどき意味や理由を排除してみたくなる。
わたしはぼーっと眺めてみる
ハサミを鋭利なかたちをした金属の塊として
わたしはぼーっと聴いてみる
ラジオから流れる声を音の連続として
わたしはぼーっと思ってみる
父や母や弟をひとりの人間として
わけの分からないことは、分からないままに
知っている物語に閉じ込めてしまわずに
ただ存在するだけの時間を 物語の追いつけない時間を
実際には不可能でも、なるべく過ごそうとしてみる。

それは、人生が既存の物語に完結してしまうことへの、
自分だけの経験が安易に誰かに共有できるものに"落ちぶれて"しまうことへの、
小さな 儚い 反抗なのだと思う。

2018/02/22

僕らが手紙を書く理由

誰かに手紙を書く時は何となく寒い日が多いような気がする。
今日も、部屋をストーブで暖かく保って、
マグカップに熱い紅茶を注いでから、わたしは文章を書いている。
わたしの書く文章は、言葉遊びでも、抽象的・詩的なものでもなく、
伝える意志と方向を持ってひとつひとつの言葉を選んだ、ある意味での手紙である。
わたしにとって大人が手紙を書くことは、
"今ここにいない誰か"に宛てて何か特別なことを伝えることで、
ちょっとした覚悟のいる作業だ。
だから環境を整えて、万全の体制で書かなくてはいけない。

インターネットネイティブ世代のわたしたちは、
"今ここにいない誰か"に何かを伝える機会に恵まれてきた。
インターネットで"今ここにいない誰か"に伝える手段といえば、
はじめはメールやブログ。その次はミクシィなんかが流行った。
それがツイッターに取って代わられるようになり、
メールは気づけばほとんど使わずLINEが当たり前になって、
極めつけはインスタグラムである。
今、十代の間では動画でコミュニケーションをはかるアプリが流行っているらしい。
こんなにもわかりやすく、わたしたちは文章で交わす言葉の数を減らしていった。

いつどこにいても、"今ここにいない誰か"に
今のわたしの気分や状況をリアルタイムに伝え、
相手のこともだいたいわかるような雰囲気になった。
それは便利で、直感的で、表現にあふれた素晴らしい世界。
言葉のもつ「伝わらなさ」が見事に克服され、
誤解も曲解も無くなっていくスムーズな世界。
色や形、質感、音などでイメージをそのまま共有する、超感覚的世界。

ここでみなさんが予想している通り、
わたしはこういった伝達方法について疑問を投げかける。

ひとつ。イメージをそのまま共有することは、
感覚の実体を掴めなくなっていくことではないだろうか?と。
例えば音楽を聴いているときに、「これ最高!」と音楽そのものをシェアする。
そのとき、なぜ自分がそれをすきなのか、考えなくなっていることに気づく。
もしそれが手紙ならば、どんな気分の時に聴きたいとか、思い浮かべる情景なんかを、
慎重に、言葉を選んで伝えるから、同時に自分のなかに言葉を使った感覚ができあがる。
そしてはじめて、自分はこんな風にこの曲を聴いていたのかと気づく。
どんなに頑張っても、他人と自分の感覚を"実際に"シェアすることはできない。
言葉を使わなくなっていくと、自分自身とのシェアすら
できなくなってしまうかもしれない、と少し怖くなる。

ふたつ。気づかないうちに、わたしたちは伝えすぎてしまってはいないか?と。
例えばツイッターでつぶやいた何気ない言葉は、
"今ここにいない誰か"に伝えたいことなのだろうか。
誰にもあてていないメッセージを伝える、というか垂れ流すことで、
伝えていることへの自覚が、意志が、薄れていく。
無責任な表現が、でもたしかに世に放たれた表現が、この世に蔓延する。
伝えることがあまりにもたやすくなってしまったから、
本当は伝えなくてもいいことまで伝えてしまう。
誰にあてるでもない、宙にぽかんと置き去りにされたメッセージとして。

手紙を書くことには、自分と向き合う力がある。
自分の中にある感覚を言語化することで、自分の感覚を知る。
そして手紙を書くことには、かならず意志と方向がある。
伝えたい内容があって、伝えたい相手がいる。
それがどんなに小さな出来事や日常的なことでも、
そのために言葉を選んで届けたいという意志が、そこにはある。
そんなわけで、わたしにとって手紙やそれに似た文章を書くことは
ちょっとした覚悟のいることだ。
伝える意志を持ち、伝える方向を決めて自分と向き合う作業。

超感覚的表現ではなし得ない、誰かとの、そして自分とのコミュニケーション。
だからわたしは、ツイッターもインスタグラムも大好きだけれど、
手紙を書くという行為を、どうしてもしたくなってしまうのかもしれない。

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2018年2月21日、水曜日。渋谷 喫茶SMiLEで行われた
「クララズ 新しいミュージックビデオ上映会」に寄せて。

2018/01/30

いじめられてるやつ、東大に行け!

「東大に行け」ってのは冗談ですが(三四郎ANN参照)
もしも いじめでつらい思いをしている中高生くらいの方と
話ができることがあれば、こんな話をしたいなあ。長いです。

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いじめられている方へ。
「いじめ」なんて簡単な言葉で片づけてほしくないですよね。
ことばや態度の暴力。虐待。傷害。そんな風に表現できる、残酷な仕打ち。
毎日、いじめてくる人間と顔を合わせるのがつらいです。
毎日、学校や部活に行きたくないです。
毎日、恐怖とともに目が覚めます。
時々、死んだ方がいいなんて思うこともあります。

残念ながら、この世からいじめがなくなることはありません。
それは社会のシステムがいじめを必要としているからです。
いじめがないと、社会の仕組みがうまく機能しないからです。
「なんで自分が被害者にならなくちゃいけないんだ!」
って思うと思います。わかります。
簡潔にいうと、あなたが標的になったのは 偶然 です。
多くの場合、いじめられる側に原因があるわけではありません。
だからまず「自分の何が悪いんだろう」と悩むのは、
時間と心の無駄遣いなのでやめてOKです。

いじめのレベルは場合によってまちまちですが、
耐えられないと感じるならば、嫌なこと全てを拒否してください。
学校行かないのOK。部活行かないのOK。誰とも会わないのOK。
できれば誰かに話してほしいけど、無理なら話さなくてOK。
とりあえず、いじめてくる人間とは絶対に会わず、
嫌な情報が入ってくるならLINEやらSNSやらもブロックして、
自分にやさしくしてくれる環境に身を置いてください。
ネットで話をいい感じに聞いてくれる場があれば、そこに頼ってもOK。
わたしも中学のころインターネットに救われて、
東京や大阪まで仲間たちに会いに行ったことがあります。
面識ない人に会うのはちょっと危ないけど、
自分にとっては、よっぽど今の状況の方が危ないんですよね。

そして、独学でも家庭教師でも塾でもいいから、勉強をしてほしいんです。
勉強が死ぬほど嫌いだったら芸術でもスポーツでもいいんですが、
勉強が超苦手ってほどでもない、そこまで抵抗がない方に、
わたしが一番におすすめしたいのは勉強です。理由は4つ。

1つ目は、集中できるからです。これは芸術やスポーツでも同じ。
何もしていないと、いじめのことばっかり考えてしまいます。
勉強、芸術、スポーツを全力でやっていると、
脳も 今やっていることに使うだけで容量が一杯になって、
いじめのことを考える時間が格段に減って楽になります。
集中しきれない時は、指導者をつけるとよいでしょう。

2つ目は、勉強は自分を裏切らないからです。
これもある程度、芸術やスポーツにもいえることですが、
努力をすると必ず結果が出ます。点数がとれると自信がつきます。
自信がつくと、いじめられていることがちょっと気にならなくなります。

3つ目は、質の高い人生を送れる可能性が高まるからです。
学校という小集団で、現時点ではあなたのほうが身分が低いかもしれない。
だけど世界はもっと広いし、人生は長い。
あなたが優秀になるほど お金も人も集まってきますし、
わざわざ いじめなどという低俗なことをしない
レベルの高い人間とのみ関係を築いていけるようになります。
将来的に得られる金銭的・社会的・精神的な豊かさで勝負しましょう。
(いじめられる経験によって人の痛みがわかる時点で、
すでに精神的にはあなたのほうが成熟しているかもしれません)

4つ目、これが勉強をしてほしい一番の理由ですが、
いじめのシステムを理解できるからです。
いじめられている人のつらさを助長しているのは、
「いじめられている理由がわからない」ということです。
仕組みを理解しないまま悩み続け、いじめられる自分が悪いんだと
自分を責める方向に行ってしまうこともあります。
わたしは大学に入って、社会の成り立ちや自己と他者のあり方、
そしてあらゆるかたちの人間関係の仕組みを徹底的に学びました。
いじめがなぜ起こり、なぜくり返し、なぜなくならないのかについて
自分の解釈をことばで説明できるようになりました。
わたしがそれらを学んでいった時期には
すでにいじめられた中学時代から5年近く経っていましたが、
ずっと胸の奥につかえていたものがようやく少し溶け出した感じがしました。

「わからない」ということは、ずっともやもやした状態で
悩みや不安みたいなものから抜け出せず、苦しいものです。
逆に「わかる」ことによって、渦中にいる自分の視点だけではなく、
外側にある視点からいじめについて考えられるようになって
めちゃくちゃ楽になります。少なくとも、わたしは楽になりました。
大学まで待てない、なるべく早くわかりたいという方は、
5教科の勉強だけでなく早速読みやすい新書から入るのもよいと思います。
なんかは結構おすすめです。
(でもなるべく良質な環境で学ぶために5教科も頑張ってほしいなあ)

若い人はどうしても、必死に勉強するのはダサいみたいな
「ガリ勉」的な発想をしてしまうかもしれないんですが、
大人になったときに頭が悪いよりは良い方がなにかと便利です。
それに、大学に入ってから学ぶ内容ってすごく面白いんですよ。
これを理解できるレベルの頭を作るために
高校までの(やや無意味にも感じた)勉強があったんだ~って思いました。

知識をつけることや自分のことばで世界を捉えられるようになることは
つらい時にかならず自分を救ってくれるとわたしは信じています。
いじめがつらいなら、いじめから逃げて、
どうか勉強をしてください。